博士号ガーの人の主張がキツい

以前にも書いたが、私は、理工系とも医学系とも博士課程には進んでいない。
医学士と工学修士でお腹イッパイで、あえて博士まで取ろうと思わなかったというのが根っこにある。
もう一つは、博士課程で充実した時間を過ごしている未来がどうしても予想できなかったからだ。
(巡り合わせもあるだろうが)全ての博士課程で素晴らしい指導者に恵まれ、研鑽を積めるわけではない、と考えていた。

なので、修士が終わり、社会人としても一仕事終え、次のライフステージをどう過ごすか?と考えたとき、「博士課程がわりに医学部学士編入制度を使おう」と割と素直に考えた。

もちろん、研究の愉しさは知っていたから、そういった営為の全てを完全に捨てるのは惜しいと考えてはいたが、何とかなるだろうと思っていた。

実際、私の進んだ医学部はカリキュラム上、研究室配属のようなものは必須ではなかったが、つまみ食い程度であるが、研究の真似事のようなものもやらせてもらえた。義務ではないというのが幸いしたのか、それなりに満足した二度目の学生生活を過ごすことができた。
もともとそんなに期待していなかったから、そういったことが自然に楽しめたわけだ。

で、本題に入るのだが、研究者崩れ(特に生命科学系)で学士編入枠を使って医学部に入る人が多くなってきたのだが(私が編入した頃はまだ物理系が多かった)、この人たちの主張が違和感ある、というかハッキリ言ってキツい。
すんなり医学部の教員系に進んだ人はそうではないのだが、通常臨床業務やりながら、でも、研究生活に入るのでもなく研究のことを未練がましく引きずっている人がいて、なんて言ったらいいんだろうか、そういう人たちが発するルサンチマン的な雰囲気や言動がなんともたえられない。はっきり言って不快だ。
さりげない提言程度のものならいいのだが、こういう人に限って現在の日本の研究政策に何かと強い意見をいう。

でもさ、本質的に無関係の人が何かいったところで、何も響かないと思う。

そして、ここら辺が嫌なのだが、そんなに自分の主張を通したければ、実践(臨床の傍、論文をものするとか)で示せばいいと思うのだが、なぜかそれもせず、評論家みたいなことをやっている。
その延長でマスコミに出たがる
その自己顕示の根拠が「長く研究生活を続けている」、「生命医学系の博士号を持っている」程度のものなのだ。

この人たちが言いたいのは詰まるところは「博士号を持っているから優遇せよ」なのだ。

よく考えれば、というか深く考えるでもなく世間的にこういう論理はまったく通っていないし、今後も通ることはないだろう。
以前にも書いたが、メーカーなどでもなるべく博士号持ちを意識して取ろうとしたことはある。でも結果は散々だった。
優遇されたいなら、明快なアウトプットを出せばいいだけなのだ。
そして、これがある意味醜悪なのだが、こういう主張をするオピニオンリーダー的人物が、ほぼほぼ例外なく何の目立った業績もあげられていない
そして、この点を突っ込まれると言い訳しかしない。
「生命系なので環境が整ってなければ研究はできない」、「紙と鉛筆と計算機でやるようなことは大学院で習わなかったから」などなど。
少々、環境が不利であろうとも研究を遂行できるというのが博士号持ちのウリではなかったのか?

私が尊敬する医師(やメーカー時代の上司)の方々は、博士号の有無にかかわらず、臨床(や生産現場)でのちょっとした気づきから、適切に問題を設定し、時には基礎的な領域に踏み込みながらも、最終的には、影響力のある結果を出している。

むしろ、予算や環境を整備し支援されなければならないのは、こういった人たちだろう。

決して「博士号があるかないか」ではないのだ。
結果を出したか、あるいはちょっとした支援でそうなれる人材に支援する、基本的な考え方はそうであるべきだろう。
何を履き違えているのかと思う。

 

ANN2b

理学系の物理と工学系の物理

理学系の物理と工学系の物理、似ているようで違うんだな、これが。

学部時代のカリキュラムで言えば、工学系の方が圧倒的に蜜だ。
実際、課題なども多く、この波に乗り切れずに留年する学生も多数。
だから、ある程度の段階までは、実務よりの知識などは工学系・応用系の物理学生の方が理物(理学系の物理)の学生よりも多く持っている。
工学系の物理の方が講義なども工夫されているような気がする。

理物系の講義も何度か覗いたことはあるが、あれは独特だったな。
教員に果たして教える気があるんだろうかと思うくらい。
「わかる人だけついてくればいいよ」というある意味放置気味のスタンスなのだ。

ところが、ある時期を境にこの関係が微妙に崩れていく。

具体的には、卒論〜修論を取り組んでいるくらいからだろうか。

この時期に理物の学生は(本当に遅まきながら)講義で習った内容と現実の物理現象が結びつき始めるようだ。

これから、彼らは加速がついていく。
まずは、自分が取り組んでいる測定系などの技術的な知識。そして関連論文で登場する技術の知識。
こういったものをどんどん吸収していく。

「ああ、物理の知識はこう使えばいいのか」という感じなんだろう。

基本的な概念が身についているだけに、ここからの吸収力はすごい。

実務的な知識という意味でも

優秀な理物の学生 >>> 一般的な工学系応用物理の学生

のような逆転がおこる。

また、社会人になるとこの差は決定的になる場合がしばしばある。

ある程度、オリジナルなアウトプットを出さなければならないとき、物理的な物の見方とその現実的な適用ができる人の方が有利なのはいうまでもないでしょう。

工学系の人が良くも悪くも月並みな発想しか出ないところで、(優秀な)理物系出身者は「楔を打ち込む」ようなキレのある発想をする。
(ただ、いっておくと、平均的には、応物系出身者の方が「使える」とは思う)

科学史的にもこういった例はいくつも見られる。
もっとも有名なところでは、かの有名なクリックによる DNA の構造決定だろうか。
クリックは元々は物理出身で、X線回折による化学構造の決定に関しては生物系の研究者よりもはるかに多くの洞察力も持っていた。
ロザランドフランクリンがいくら丁寧に実験しようとも、化学構造はもとよりその生物学的(遺伝学的な)な意味に関してはまったく明快な結論に到達はできていなかった。
ここらへんよくわからないという人は『二重らせん』を読んでみるといいと思う。
なお、日本ではクリックに対してネガティブな印象を持っている生物系研究者がいるようだが、単なる妬みだろう。
妬むくらいだったら、物理勉強すればいいだけなのにそれすらしない。
こんな態度が常態化しているから、コロナワクチンの開発でも後手に踏むことになったのだろう。
博士号ガーの人の主張がキツい』でも触れたが、この手の態度に「虫酸が走る」と公言しているハードサイエンス畑の人は多いし、一般の人も支持をまったくと言っていいほど得られれていない。
アウトプットも出さないで同情を買うようなことに執心していては、マトモな大人が取り合うわけはない。
せいぜいが研究者崩れから薄っぺらい共感を得られる程度だろう。

話が脱線した。
ちょっと強引にまとめると「同じ物理を学ぶのでも理物系と応物系は違う。そしてそれは、未知の要素の強い現実的な課題に取り組むときのアプローチや結果の出し方に差が出る」といったところでしょうか。

工学系の物理の人が、理物にジェラシーやコンプレックスを感じる(人前では言わないがこう感じている人は多いと思う)のはこういうとこにあるのかもしれない。

 

ANN2b